あだかず  つれづれの記

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zoom RSS 再びの同級会  2003.11.07

<<   作成日時 : 2006/03/04 20:42   >>

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小学校4年4組の2回目の同級会が、11月初めに越後湯沢でありました。担任だった斎藤富美子先生も参加して頂きました。今回は51年目の同級会になります。前回の47年ぶりの感動には及びませんが、51年ぶりの再会となった方も何人かいました。50年 の歳月が経過しても、当時の性格や面影は残っているものですが、中にはおとなしかった人が随分と活発な性格に変わっている場合もありました。

 そして同級会での話題は、昭和26年ころの時代に遡(さかのぼ)り、当時の記憶を辿ってみることでした。みんなで話しているうちに、色々なことが少しずつ 蘇ってきます。 やはり共通していることは、 みんな貧乏だったということです。日本が戦争に負けて、ようやく立ち上がろうという時代でしたが、まだまだ日本全体が貧しい時代でした。そうした苦しい環境のなかでも、 なぜか生き生きとして、その時代を過ごしたように感じたのです。 むしろ貧乏の中で、色々な知恵を出して生きていたことが、人間らしかったのかも知れません。それと長い歳月が、つらい部分をかき消してくれたのでしょう。

以下は話題になったことの一部です。

 当時の遠足でリュックサックに詰めていくものの定番は、大きな握り飯がふたつほど、夏みかん、りんご、キャラメル(キャラメルは森永か明治、まだグリコはなかった?)などだったのです。それらは普段、なかなか口に入らないものでした。行く先は、村松の公園や護摩堂山など、片道5〜8キロのところですが、 長い隊列を組んで歩いていきました。4年のときには、初めて電車に乗って加茂の明神神社に行ったのです。

 それから隣の村松町に住んでいた先生のところに何人かで遊びにいったことがありました。そのとき誰と行ったか思い出せなかったのですが、自分も行ったという何人かの人がいました。

 許省三くんのこと。小学校5年か6年のとき、彼は家族と中国に戻ることになり、みんなで学校で見送ったそうです。彼とは結構、親しくしていた自分ですが、 その記憶はありません。しかし先生は、その時のことをよく覚えておられました。彼は中国での文化革命のさい、ずいぶん辛い体験をしたそうですが、今は日本に戻り、神奈川県 の東部に住んでいるとのことです。

 当時、子供たちが持てる小遣いは、ほとんどありませんでしたが、数少ない小遣いの収入源は、くず鉄などを集めて屑鉄屋さんに持っていくことでした。紐をつけた磁石を川底に落とし、よく引っぱって歩いたことがあります。 しばらく引きずりまわしていると、少々の釘や針金などの鉄くずが磁石についているのです。しかし値のつくのは、「あかがね」といわれた銅でした。ちょっと悪がきの話・・・店先で「あかがね」を渡して、お金を貰い、その家をぐるーと回って、裏のあたりで保管してある「あかがね」をせしめて、再び店先で換金するという・・・・時効になった手口?を披露してくれました。

 あの当時、五泉の周辺では養蚕がかなり盛んで、桑畑があちこちにありました。五泉では「かんこ」と呼ばれていた桑の実を、口をまわりを真っ赤にして、良く食べたものです。今、子供たちがカブトムシを飼うと同じように、カイコを飼って観察することが はやっていました。真っ白でころころと大きくなっていく「かいこ」は、ちょっと眩しいような不思議な生き物でした。「かいこ」で思い出すのは、途中で転校していった沓掛さん(父が養蚕試験所の職員だった)の消息です。斉藤定夫くんの話では、群馬県のほうに戻ったらしいところまで は分かったが、その先は不明だそうです。


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