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zoom RSS レーザ開発の軌跡     2002.5.16 改訂

<<   作成日時 : 2006/03/04 20:30   >>

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レーザの原理は、1958年にタウンズなどにより発表され、1959年にメーマン博士がヒューズ社の研究所でルビーレーザを実現しました。このレーザの発明は、トランジスター等と並んで20世紀の最重要発明のひとつと言われています。その優れたレーザ光線の性質は、無限の可能性を秘め、近い将来、科学技術の世界を大きく変えるだろうといわれました。

レーザ光線は、光通信の分野で大量の情報を伝送する道具となり、またレーザ光線の強くて鋭いエネルギーは、超微細加工の手段として、電子部品やIC生産に不可欠な微細加工を可能にしました。まさに情報化社会を支える重要な基盤技術になっています。

私が勤務したN社でもその発明の1年後の1960年から研究が開始され、固体結晶を使ったレーザ装置には中央研究所の吉川さん(後にレーザエンジニアリング関係会社の社長となった)等が、またガスレーザ装置には■■事業部の小林さん(工学博士)などが、それらの研究開発に従事されました。民間企業としては質、量ともに突出した研究スタッフ陣がいました。固体結晶として当初、使われていたものはルビー結晶でしたが、その後、実用性のあるYAGレーザ装置が主役になりました。

1972年6月に中央研究所の○○研究部の中で、YAGレーザ事業を開始するためのチームが編成され、レーザのビジネスが開始されたのです。今考えればその記念すべき時に、私もそのチームの一員として加ることができました。当時、既に米国では、ホロビーム、カントロニクス、コラッドなどのレーザメーカーが存在していましたが、N社が国内では最初のYAGレーザメーカーとなりました。

この事業化は、○○研究部長の内田さん(後に当社取締役、現東海大学教授、工学博士)をトップとして、部隊長役には吉川さん(当時、室長)、実戦チームのメンバーは、主任が三浦さん(現静岡大学教授、工学博士)、井上さんがレーザ加工機(レーザスクライバーという装置)を担当、武中くんがパルスのレーザ発振器(パルス的にレーザ光線が発生する装置)を担当、そして私がCWの発振器(連続的にレーザ光線が発生する装置)を担当してスタートしました。

我々の仕事は、これらのレーザ装置の性能、信頼度を高めたり、製造コスト削減のための製品化業務を軸として、製品を製造して、顧客先に納入し、更にアフターサービスまでカバーするという、幅広いものでした。勿論、○○研究部の中には、研究開発を進める多くの研究者がいました。

当時の顧客は、大部分が大学や研究機関でした。1972年9月、私が最初に担当した顧客は、東京工業大学の末松研究室(末松助教授の研究室、後に学長に就任)でした。SL113という出力5ワットのCW発振器を納入したのですが、何度か装置の調整で研究室に出向き、ある時には先生にカツ丼をご馳走になったことを覚えています。

私は、YAG結晶についても担当していて、■■研究部の白木さんが開発試作したYAGロッドの性能評価を随分させてもらいました。白木さんはYAGロッドの研究については国内トップクラスの研究者でもあり、側面から我々を支えてくださいました。現在は○○精密宝石の顧問をされていると聞いています。

1976年、SL115の上位機種として開発したSL116は、単体あたりの出力が世界最大、発振効率が世界最高という、うたい文句で学会に発表(山根氏等と共同発表)して自分なりに満足していました。このことは新聞等にも載せてもらいました。

クリプトンアークランプの製造については、関西にあるランプメーカーの技術者・鷲見さんに随分とお世話になりました。我々のめんどうな要求をいつも快く引き受けてくれ、性能改良にご協力いただきました。鷲見さんは、その後高圧ランプの研究論文で博士号を取得されました。本当によかったと思います。

しかし1977〜78年頃、レーザ装置の用途が工業用として普及していくにつれ、使用条件が非常に過酷になってきて、特にランプの寿命があるユーザの使用条件では3O〜50時間程度という深刻な事態になったことがありました。ユーザから装置のところで待機するように命じられ、三浦さんと私が変わりばんに装置に張り付いたことがありました。

 これまでのアークランプは、寿命問題の他に外国製品に較べて、コストも問題がありました。1980年頃、ついに海外某社に製造を切り換えることにしました。折りしも円高がドンドン進んでいる頃で、海外での製造が大きなメリットとなってきた時代でした。設計コンセプトもかなり違うものでしたが、問題点はドラスチックに改善されました。先方のセールスマネージャ兼バイスプレジデントのターナーさんと何度も仕様のつめや値段折衝を重ねることになりましたが、吉川さん、井上さんを含めての数々の交渉のことが印象に残っています。

当社レーザ発振器の出力効率は競合他社を大幅に上回っていました。その理由は当社が開発したプロレイト型といわれる独自の集光器を採用していたからでした。しかしこのプロレイト型集光器は大きくて重く、製造コストも高く、おまけに寿命に問題がありました。当時は、顧客先で集光器のトラブルがあると、ハンドキャリーすることもかなりありました。その真鍮の塊みたいな集光器の重さを知っている人は何人もいたはずです。工業用として需要が圧倒的に多くなる状況の中では、少々の効率の良さよりも、信頼性、低コストを選択するのは当然のことで、遂に1983年に一般的に使用されている小型の楕円筒集光器に切り換えました。

色々な技術的な問題に遭遇しました。1979年頃のちょっと変わった話ですが、循環冷却水路にある、クリプトンランプ表面に汚れが付着する現象が発生しました。こんな些細と思えることが、レーザ性能に極めて深刻な影響を及ぼしたのです。苦労の末に、偶然の実験条件の違い、つまり循環水路に空気が流通するときと、密閉されているときに現象がドラスチックに変わることを発見したのです。これによって犯人を突き止めることができました。その正体は嫌気性微生物だつたのです。

また1983年頃、ある条件でレーザを動作させた時に、レーザ発振器の中の光学部品が、頻繁にダメージを起こす現象(スパイラルカッター事件といわれた)。これも長い間、大変な苦労をしましたが、ついに犯人を特定することができました。本当に地道な調査の積み上げでした。

1982年頃、炭酸ガスレーザの部隊もグループに加わり、ガスレーザ技術者の杉島さん、田口さん(現運輸省船舶技術研究所勤務)、堀田さん(工学博士)なども仲間になりました。杉島さんの仕事ぶりは、「杉島製作所」と形容される独特のスタイルを持っていました。営業からアフターサービスまで自分(達)でやってしまうもの、今でいうミニカンパニーを昔から実践していました。最後となった印材加工機の仕事に至るまでそのスタイルは変わりませんでした。とにかく杉島さんのバイタリティー、チャレンジ精神は大企業の技術者の中では異色のものでした。また田口さんは発想がユニークで感性のある研究者タイプでした。堀田さんは、田口さんの大学の後輩で、これまた個性的な研究者でした。

レーザ事業は、やがて1985年に半導体市場の好調にも支えられ、大きな飛躍を果たすことができました。しかし、その後、色々な状況の悪化により苦難の時代に突入していきました。私は1985年頃からはレーザの製造、保守サービスの業務に携わり、そして1995年にはレーザの仕事から離れました。

今、時代のトレンドは情報技術 ( I T )による社会の仕組みの革新、第二の情報化社会へと突き進んでいます。そしてレーザテクノロジーが、まさに I T を支える重要な基盤技術のひとつになっています。初期のレーザ装置の開発に関わったものとして、感慨深いものがあります。

  おわり


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コメント(1件)

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ご無沙汰しております。上記発見して感激しました。
佐鳥レーザ
2010/02/11 21:33

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