あだかず  つれづれの記

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zoom RSS 奇跡の対面(1)・・靖子さんの所在判明!

<<   作成日時 : 2007/05/07 22:18   >>

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私の近所に住む知人、大前泰子さんは、私が、以前にパソコンを少し教えていた方で、最近は、ボランテアやカラオケなどでご一緒しているご婦人です。この2月17日、かみさんに聞いてほしいことがあると、お見えになったのです。

今も同じ姓か、変わっているのか、住所も佐世保市なのか分らぬが、従姉妹の荒木靖子さん(62〜63歳)を捜したいとのこと。市役所でも個人情報の問題で、やたらには教えてくれない。昔「ご対面」のテレビ番組があったが、最近はみかけない。

これは、数年前の法事のときに、ある親戚筋の人(後述する静香さん)から、「あなたたちには、従姉妹がいるのよ」という話を、兄達と一緒に聞いたのだそうです。この1月に、泰子さんの兄から届いた手紙(兄弟姉妹みんなにコピーで配信したのだそうだが)の一部を引用して、その話の詳細をご紹介しましょう(一部の文面は、あだかずが修正してます)

 これから遥かに遠い国で起こった出来事について話をしよう。ここでいう遠い国とは、・・・この世界の遥か先にある第二の娑婆世界を越えて、さらにその向こうの第三の娑婆世界、この地球と同じだという第三の娑婆世界で起きた話である。

そこにも和歌山県○○郡○○村に荒船という小さな在があった。そこに住まいする浜口家の三女に千代乃という娘(注:この筆者および大前泰子さんの叔母にあたる)がいた。昭和八年、田原尋常小学校を卒業して、花嫁修業を兼ねて串本の海月館に奉公に出された。昔の田舎は貧しくて、これといった産業もなく、貧困解消の口減らしでもあったのではなかろうか。

黒潮踊る南紀串本港は、当時、大日本帝国海軍のれっきとした軍港であった。そこに佐世保港から軍事訓練として戦艦が駐屯していた。その戦艦には多数の兵士が乗っていて、当然、休日には水兵達は町に遊びに出たであろう。その兵士達と町の娘たちが、ねんごろになるには時間がかからなかった。それは故意に作られたものではなく、世間でいうところの若い男女が、昔も今も変わらない自然の成り行きであった。
やがて長期訓練も終わり、その戦艦は佐世保に帰って行った。町は元の静けさに戻ったのである。しかし後日に、千代乃は妊娠していることに気付いたのである。だからといって、こんな世間の狭い田舎で父無し子を産めば、世間のさらし者となって、一生が台無しになるのは必定である。

この途方にくれる窮地を、荒船にいる両親には、その方策を思いつくことができなかった。それを救ってくれたのは、当時、神戸で働いていた千代乃の叔父にあたる浜口五郎氏であった。
千代乃を神戸に引き取った五郎氏は、昔からいうように都会の中では、「隣りは何する人ぞ」という無関心さから、人知れず千代乃が出産できるだろうと考えたのである。
千代乃が主張する話では、相手は佐世保の海軍将校で、お茶やお花の習い事の途中で知り合ったのだという。そして将来を約束したもので、決して遊びではないというのだ。しかしこれは本人同士が交わした約束ごとで、親たちは格式を守ろうとして、息子と意見が合わないのは世の常である。

生まれてくる子供を引き取ってもらう、子連れのままでは田舎には帰れない。これが五郎氏にとって、次なる苦労の始まりであった。暇をみつけては佐世保に通って、先方との交渉が始まった。その佐世保の交渉相手とは、さすが海軍将校を育てただけあって、門構えの立派なお屋敷に住んでいて、初対面では「うちの息子に限って」と、相手にもされず、その証拠を出せとなじられ、けんもほろろに追い返されたそうだ。

それでも五郎氏は、臆せず、怯まず、通い続けて、頑張り通したのだ。五郎氏の命をかけた執念に、先方も負けて、除々に話が出来るようになり、最後には承諾してもらい、その苦労も報われた。五郎氏は、後日、佐世保で交渉した相手、荒木家を評して、「名門の格式ある家で、両親も実に立派な人であった」と娘である静香さん(今もご健在)に語った。

佐世保からの連絡で生まれた子に、靖国神社の「靖」という字をとって、「靖子」という名前がつけられたのである。静香さんは、その頃は小さかったので苗字は忘れたらしいが、妹の泰子は、それをどこかで耳にしたらしくて、たぶん「荒木」だという。つまり千代乃が神戸で生んだ子供は、「荒木靖子」ということになる。

明日には、子供が佐世保に引き取られるという日が来た。その前夜、千代乃は泣き明かしたそうである。自分の乳飲み子を佐世保に差し出す、辛い運命。おそらく一生の別れになるやもしれない、さりとて捨てなければ、わが身も飢ゆ。慟哭、我が胸を打ち、捨てるが是か、捨てざるが非か、人間の恩愛から、心は迷ったことであろう。我が身を引き裂かれる思いで、身の不運を神に嘆いたであろう。

新しい半纏(はんてん)で子供を背負った千代乃を、心を鬼にし五郎氏は縄で引きずるが如くにして、神戸から連れ出した。多分、五郎氏とて、悲しい顔でついてくる千代乃よりも、もっとつらい心境だったに違いない。その時以来、千代乃は佐世保に行ったきりの「靖子」という名前を、歯を食いしばり断腸の思いで、胸中から消し去ったのであろう。だからそれ以後、二度とその名を口にすることはなかった。後日、静花さんが父・五郎氏から聞いた話によると、格式ある家庭だけに、息子の汚点を隠して、靖子さんは両親の子供として入籍されたそうです。

その後、我々が千代姉(注:叔母の千代乃さんをこのように呼ぶ)知るのは、尼崎に嫁に行く前だったと思う。嫁に行く前日、我が家の玄関で、千代姉と母親が、額をつき合わせて真剣な話をしていた姿が記憶にある。恐らく靖子のことについて、今後の処世術の注意を受けていたのだろう。しかしこのように嫁に行くことが出来たのは、すべからく五郎氏のお陰である。千代姉は、心の中で五郎氏に手を合わせていたことだろう。それから嫁に行った千代姉のことは、我々の視界から消えたのである・・・・

長い年月が流れて、佐世保からの風の便りによると、その海軍将校も戦死し、その両親も他界して、天涯孤独となってしまったらしい。孤独になれば、誰しも生んでくれた母親が恋しくなるもの、一度、逢って知りたい、確かめたいと思ったに違いない。
いろいろと身内で話を聞いてみると、靖子は、両親から聞いた実母の里を訪ねたのだが、無碍に断ったのだという。これは、我々、身内にとっては最大の汚点であった。(あだかず注:靖子さんにお会いできた時に、このことを確かめたら、和歌山市までは来たが、その先は分らず、訪ねることは出来なかったという)

後日、その話を聞いた精兄さん(静香さんの兄)は、靖子があまりに可愛そうだと、佐世保の市役所に何回も問い合わせたらしいが、顔の見えない電話では警戒されて、また個人情報の保護という昨今の事情からも、情報の提供を受けることは出来なかった。さりとて佐世保まで行くのも大変である。この薄幸の神戸生まれの荒木靖子さんは、今は佐世保で行方不明である。しかし我々には荒木靖子さんという従姉妹がいることも事実である。今後、皆さん(兄弟親戚)が佐世保方面に旅行するようなことがあれば、市役所に寄って、靖子さんの所在を確かめて欲しいと思っている。
そして母親としての千代姉の今までの生き様を伝えて欲しい。もし縁があれば、また逢うことだろうと思って、この悲運の物語を残すものである。

なぜ、このような話になったかと言えば、この前の母親の十七回忌に、お参りに来てくれた静香さんを囲んで、色々な話をしているうちに、この靖子さんの話に連なったのである。神戸で山口家の中で短い期間であったが、靖子さんと一緒に暮らした静香さんが、子供の頃の遠い思い出を話してくれたのがきっかけであった。

最後にこの縁者としての荒木靖子さんの幸運をいつまでも祈って止まない。この物語は、遠く第三娑婆世界で起こった話である。従って、登場人物や場所名は現在の娑婆世界とは無関係である。


それで話は元に戻るが、大前泰子さんは、靖子さんをどうしても探し出したいという兄の手紙を受けて、また自身も靖子さんを探しあて、会いたいという気持ちにかられていった。そんな話を大前泰子さんから、うちのかみさんが聞いたのだ。

(かみさんのHP日記より)
2月17日、先ず私のHPのトップに掲載してみることにした。「佐世保の荒木靖子さんを捜しています」と呼びかけたのだ。

そして、その夜遅く、あだかずが名前で検索したら、何とご本人が朝日新聞に、「産んでくれ、ありがとう」の題名で投稿しているではないか!
内容も聞いた事と同じだ。間違いない!
思いがけないことが目の前で起きた。時刻は11時半。こんな時刻に電話も出来ず、友人に記事添付のメールを送信した。


私は、インターネットの検索で、もしかして探せるかもしれないと思いついた。検索ツールの「Google」で、「荒木靖子」と「佐世保」というキーワードで検索してみたところ、なんと一発で、その捜し求めている人の記事が目に飛び込んで来た。「ワァ〜、これはなんだ」思わず叫んだ。その記事は朝日新聞の長崎版のコラムに投稿されたもので、以下のようなものであった。

産んでくれ、ありがとう 2005年11月06日
佐世保市潮見町 荒木靖子さん(61)

 お母さん元気ですか。お父さんは私の顔を見ることなく、南の空で日本の平和を祈って戦死しましたね。切なかったでしょう。私もおなかの中で泣きました。
 お父さんの遺言を守り、生まれた女の子に「靖子」と名付けて祖母に託しましたね。あなたが姿を消した後、母乳が欲しくて祖母の乳房にすがって育ちました。とても大事にかわいがってくれ、ほかの子と同じように愛してくれました。
 でも父が恋しくて、5歳の私はガラス窓にすり寄って外を眺めながら「浜千鳥」を歌っていました。「親をさがして鳴く鳥が……」だったのです。

 今でもお母さんを求めています。産んでくれてありがとう。60年が過ぎたけど、一度でいいので会いたい。あなたと手をつなげる日を待っています。きっとその日が訪れるでしょう。生きていてください。


画像



(かみさんの日記より)
2005年11月6日の投稿。潮見町とある。ダメ元で電話局に尋ねた。
潮見町には同じ姓が2軒、しかも同じ住所だという。親子だろう。
「深夜料金で1軒ずつ料金がかかる」というが、今はそんなこと問題ではない。2軒の番号を聞いた。既に午後12時前。

♪親を捜して鳴く鳥が・・・♪の「浜千鳥」を歌ったとあるご本人には、辛いお知らせもある。
しかし、友人は見付かってどんなに喜ぶだろうか等と、中々寝付けなかった。
一刻も早く教えてあげたくて早起きをした。
あまり早朝よりの電話も・・・と、午前8時半を待ってかけ、プリントした投稿記事を届けて、泣きながら会話した。

これで、めでたく電話で従姉妹同士の会話ができると思っていた。
が、2軒とも電話で会話ができないまま、切られてしまうと友人から電話があった。
それで、私がかけると話を聞いてくれたが、そのような人は居ないという。
では、もし誰か知っている人があれば、電話代で迷惑がかからぬように、我が家で支払うのでコレクトコールで、連絡をしてほしいと頼んで切った。

そして、日曜日だとは思ったが、ダメ元でという思いで佐世保の新聞社に電話したが、本社(長崎総局)扱いだから調べてくれるという。
私の電話番号から、「僕も相模原です」というではないか。
やった〜きっと調べてくれるに違いない!
朗報を待っているところです。



かみさんは、このように翌朝、大前泰子さん宅に伺い、直接、お伝えしたところ、泰子さんは涙を流して喜んでくれた。また、あとで聞いた話であるが、そのことをお兄さん達に電話で連絡していると、お孫さんが、泰子さんの頬に流れる涙を拭いてくれたそうである。

2月19日に、朝日新聞社から連絡が入り、投稿時の資料が長崎総局に残っているということで、意外にも短時間で、長く探し尋ねていた荒木靖子さんの所在が分ったのだ。それから更に数日後に、荒木靖子さん本人から我が家に電話がはいったのだ。

その感動は、他人のことであったが、なんども経験できるようなことではなかった。だが、靖子さんの母・千代乃さんは、二人の女の子を生んで育てられたが、残念なことに15年前の平成4年に他界されていた。靖子さんの願いであった、母との再会の夢は果たすことは出来ない。

3月のちょうどお彼岸のとき、大前泰子さんたちは、荒木靖子さんの母の出身地である和歌山県で、実に63年の時を経て、最初の対面を果たすことになった。その詳細は、また別に記すつもりだ。
さらにこの5月の初めに荒木靖子さんは東京に出てこられ、大前泰子さんと再会したのだ。
さらに奇遇なことに、荒木靖子さんの叔父(父・荒木泰彦の弟さん)が、この相模原市内にお住まいになっていること、このことは、勿論、大前泰子さんも知らなかったことであるが、この世の中には不思議な結びつきが沢山あるものだと、しみじみと感動した。

荒木靖子さんは、父・荒木泰彦が祀られている東京の靖国神社に参拝したあと、東京にいる娘さん、相模原にお住まいの叔父、それに大前泰子さんと共に我が家を訪ねて下さった。それは5月4日、みどりの日のことであった。

更に付け加えると、戦死した海軍中尉、荒木泰彦さんの戦友で元海軍大尉の松永市郎氏が、光人社NF文庫で「思い出のネイビーブルー(私の海軍生活記)」で、戦友、荒木泰彦中尉の思い出を、さらにその中に「忘れ形見の結婚」というタイトルで、靖子さんのことが語られています。このことも、また別にご紹介したいと思います。そこには荒木泰彦中尉の凛々しい写真が載っていて、なるほどと感慨深いものがありました。

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コメント(6件)

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”伝えたい・命のことば”

「靖子さん」の叫び声が聴こえて来ます。
あの戦争が齎(モタラ)した悲しい物語!
・・・事実は、小説より奇なり・・・

ご本人、然り!
天国に行かれたご母堂様の心情・・・
将に、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、胸に秘めた思い「女の一生」を垣間見ました。

感動しました。
ありがとうございました。
桂海
2007/05/09 21:11
 聞いた話で恐縮なのですが・・・。
 浜口家は900年前後の昔に、この地に移り住んだと聞きます。古い墓石に戒名が記されていないことから、平家の落ち武者ではなかったかとも聞きますが、定かではありません。
 間違っていなければ、浜口五郎の遺骨は、現在埼玉県にあります。
荒船・・・。
2007/12/03 17:23
荒船・・さん〜ですか。大前さんから埼玉の方に親戚の方がいらっしゃると聞きましたが・・・。
あとで確かめてみます。
あだかず
2007/12/10 20:45
聞いた話で恐縮なのですが・・・。
荒木中尉(当時)は、串本で水上飛行機に搭乗されていたのではないかとの情報がありました。親戚の者から、「アラキ中尉という方が、昭和17年〜18年頃に水上飛行機に乗っていて、何度も会った。」と知らせがありました。中肉中背で「サツマイモ」が好きだったとのこと。「特攻」で亡くなったと聞いたらしいのですが、九州の出身で、当時中尉だったとのこと。
間違っていたら、ごめんなさい。
荒船・・・
2008/05/17 00:45
0戦とゲタバキ機とでは、違う人かも知れませんね。
荒船・・・。
2008/05/17 00:58
荒木泰彦さんは、多分、昭和15年に海軍兵学校を卒業し、佐世保を母港とする軍艦に乗り、昭和18年3月ころには、訓練で和歌山県の串本にいたことになります。その後、まもなくの8月には南方のソロモン島上空を飛行中(戦闘中か?)に、アメリカ軍の攻撃を受けて、撃墜され戦死されています。その時は、中尉だったはずです。勿論、長崎県佐世保の出身です。アラキ中尉が、荒木泰彦さんである可能性が高いと思いますが・・・その親戚の方は、まだご健在なのでしょうか?
あだかず
2008/06/01 22:57

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