あだかず  つれづれの記

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zoom RSS 奇跡の対面(2)・・・松永大尉と靖子さん

<<   作成日時 : 2007/05/12 20:19   >>

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「奇跡の対面(1)」の最後に紹介した、荒木靖子さんの父・荒木泰彦中尉の海軍兵学校(江田島海軍兵学校)の同期生・松永市郎元大尉が著した「思い出のネイビーブルー(私の海軍生活記)」・・・光人社NF文庫・光人社刊・・・という本に、荒木中尉の忘れ形見・靖子さんのことについて触れている。この本の存在は、大前泰子さんが、靖子さんと父・故荒木泰彦氏の弟さん(靖子さんの叔父にあたる)にお会いしたとき、教えて貰ったものだそうです。

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光人社刊「思い出のネイビーブルー」とマイパソコン


この本を読んで、またまた人生のもうひとつの感動的な出来事を知ることができ、我がHPにお借りし、ご紹介したいと思った。そこで松永さん方(神奈川県秦野市在住)に連絡をしたところ(松永市郎氏は2年前の平成17年3月に亡くなられていることは、すでに聞いていた)未亡人の富子さん(84歳)が電話に出られたので、転載のお願いをしたのだ。
その際、佐世保の靖子さんが数日前に松永さん方を訪ねてくれたこと(相模原を訪れたあとに立ち寄られたらしい)、佐世保に住んでいたころ、子供だった靖子さんを、我が子と一緒に遊びに連れて行ったことなど(松永氏の著書にもそのことは書いてあったが)を話してくださった。

また、亡くなった主人・松永氏の父は、なんとあの硫黄島の海軍航空隊の司令官の松永貞一中将とのこと。米軍が上陸する少し前に彼は病気を患い、市丸中将(当時は少将か)と交代したために、父は玉砕を免れたのだと、富子さんは付け加えてくれた。この交代した市丸中将は、総指揮官だった栗林中将らと共に玉砕した。松永貞一中将(1892〜1965、当時は少将か)は、最近、公開された映画「硫黄島からの手紙」の中で登場する大杉海軍少将のモデルだという。それは余談といえば、余談だが・・・

そこで松永市郎氏の「思い出のネイビーブルー」から「忘れ形見の結婚」という一節をお借りして、下に記す。

昭和48年1月16日、ここ佐世保市では夜来の雨も上がり、若い二人の前途を祝福するかのような輝かしい日和となった。健保会館では、故荒木泰彦君の遺児靖子さんの結婚披露宴が行われ、磯辺秀雄二群司令、それに私たち夫婦が新婦側の知人として招かれた。私は次のように挨拶した。

「結婚式における挨拶は、新郎新婦をほめそやすものであることは、百も承知しながら、私は私なりにお話します。私がはじめて靖子さんを知ったのは、あなたが小学校三年生のときでした。それからの数年間、あなたは私の子供たちと一緒に、正月を迎えたり、ピクニックや海水浴にでかけたりしていました。

あなたは、お父さんが戦死した後に生まれたので、世間常識的には忘れ形見という立場です。そして父方のおばあさんが、母親代わりであなたを育てました。
一方、私は、両親が結婚してまもなく第一次大戦がはじまり、海軍軍人であった父貞一は、ただちに地中海に出征し、私はその留守宅で生まれました。幸い父は無事帰りましたが、もし戦死しておれば、私も忘れ形見となったわけです。

その後、母方の祖母に育てられた私は、幼い頃、お祭りが大嫌いでした。着飾った友だちが、お父さん、お母さんに手を引かれてお祭りに出かけるのを、柱の陰から見つめていました。それはとっても切ないものでした。中学校に行くようになると、そんなことが余り気にならなくなりました。そこで私は、あなたが小学生の間は、私の子供たちと一緒にあちこち連れてゆきました。
靖子さん、私はあなたの過去についいて言わずもがなのことを、おしゃべりしすぎたかもわかりません。しかし、これから話を進めてゆく上で、枕詞として必要でした。

靖子さん、私たちのような境遇に育ちますと、喜びを喜びとして受け止め、楽しみにひたることが、どうしても出来ません。だれかが何かを買ってやろうとおっしゃっても、いいえ結構ですと、まず身を引くことを考えます。これからはそんな卑屈な態度や引っ込み思案をきっぱりやめて下さい。

靖子さん、いままでのあなたはどんなにあがいても、両親の揃った友だちより幸福になることは出来ませんでした。だけどこれからは、あなたの心がけ次第、努力次第です。いままでのあなたはお母さんという言葉を使う機会に恵まれませんでした。オシュウトメさんがいらっしゃるそうですね。

これからは何事も、お母さん、お母さんと相談をもちかけ、また時にはうんとあまったれなさい、いままでの分を取りもどすつもりで。お母さん、ご主人と心を合わせ、一日も早く明るい健全な家庭を築かれるよう、私たちは陰ながら見守っております。

(中略)

新郎新婦に申し上げます。新婚旅行には、お父さんが短い青春時代を送った兵学校に行くそうですね。参考館講堂の特別室には、戦死者の姓名を大理石に刻み込んであります。
お父さんの名前を見つけたら、二人で手を握り合って、私たちが結ばれましたと報告して下さい。またあなた方の子供たちに聞かせてあげなさい。

あなたたちのおじいちゃんは荒木泰彦と言いました。昭和12年、兵学校には、全国から1万人が受験し、三百名が合格しました。その三百名が兵学校を卒業するときは、みんな飛行機乗りを希望します。しかし改めて身体検査、適性検査が行われ、飛行機乗りになったのは、わずか百名でした。おじいちゃんは、その百名の中の一人に選ばれました」

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最愛の娘の顔をみることなく戦死した68期荒木泰彦中尉


一堂寂として声なく、わずかに靖子さんのすすり泣きが聞こえた。こらえにこらえた私の目からも涙が流れた。私はさらに言葉を続けた。
「結婚式に涙は、不吉なものと聞いています。しかし、暗いしめっぽい荒木靖子が、明るい朗らかな有園靖子に生まれ変わるためには、ここに新たな洗礼が必要です。靖子さんや私の涙は、この洗礼の清い水とお受けとり下さい」

この挨拶が終わると同時に、一人の婦人が私のところに走り寄ってきた。
「正行(新郎)の姉です。靖子さんは私がお引き受けします。どうぞご安心下さい」
感きわまった私は、言葉が言葉にならず、深々と首をたれた。

出港がちな磯辺秀雄二群司令がたまたま佐世保に在泊中だったので、制服で参列した、天の導きとでも言おう。祝い歌として彼は「同期の桜」を歌った。これは同席70名の共感を呼び、泰彦君の霊に届けとこだました。この大合唱に感激した中島さんは、神妙なるべき仲人役の立場を忘れて踊り出した。
同期の桜の踊りは、「忘れ形見の結婚」に錦上さらに花をそえていた。


富子未亡人には、松永貞一のことを、もっと知りたいから、お願いしますと、重ねて懇願され受話器をおいた。突然に電話をしたのに、どうしたことだろう。硫黄島に関わる壮絶な玉砕物語は、最近、栗林中将が一兵卒のように悲壮な最期を遂げたことを聞いていたので、なんとも身近な出来事に感じられた。そしてその関係者が、今、私の前にいる・・・・
いずれお元気なうちに、出来るだけ早くにお訪ねしたいと思った。不思議な因縁がからんだ大前泰子さんも同行してもらおう・・・・
今、私の周りには、色々なことがなぜか渦をまいている。もうひとつ、余計な話になるが、靖子さんの結婚式の前日、つまり昭和48年1月15日は、あだかずたちの結婚式でもあった。

奇跡の対面(3)は、再び、大前泰子さんの兄の手紙に戻ろう。

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